LOGIN夜7時。都内の最高級ホテル、38階の日本料理店のVIP個室。
紗月は無駄のない、上品な紺のワンピースでドアの前に立った。
怜司に教わったとおり、下腹を引き締め、肩を開く。
頭のてっぺんが天井へ届くように、背骨を伸ばした。
ドアを開けて入ると、先に来ていた雅人が振り返った。
その目に、一瞬、戸惑いと驚きが走った。
いつも背を丸めておびえていた、みすぼらしい妻はどこにもいなかった。
まとめた髪の下に見える首筋。無理なく開いた肩。
紗月は夫が椅子を引くのを待たず、自分で腰を下ろした。
(……何だよ。何で、こんなにまともに見えるんだ)
雅人は不愉快な危機感を払いのけるように咳払いし、ぶっきらぼうに顎を動かした。
「来たか。遅れなくてよかったな。座ってろ」
やがてドアが開き、重厚な雰囲気の紳士と、品のある女性が入ってきた。
大成インベストメント社長、高瀬修一(たかせしゅういち)。その妻で高瀬文化財団理事長の、高瀬玲子(たかせれいこ)だった。
雅人は即座に、卑屈なほど愛想よく笑って頭を下げた。
「高瀬社長、理事長。本日はわざわざお越しいただき、本当にありがとうございます」
「一条社長、お久しぶりです。そちらは……奥様ですか」
修一に聞かれると、雅人は誇らしげに見せかけて紗月の肩へ手を回した。
「はい、妻の紗月です。家のことばかり任せているので、こういう場には慣れていなくて」
世間知らずの役に立たない主婦だと妻を下げ、自分を大きく見せようとする、浅い計算だった。
けれど玲子の目は、その手を越えて、紗月の顔に長く留まった。
食事が始まると、雅人は待っていましたとばかりに語り出した。
まるで、すべてのデザインもブランドづくりも、1人で進めてきたかのように。
「今回の新作も、私が徹夜でディレクションしたんです。消費者の感性に届くミニマリズムと、タイポグラフィの調和。それが経営者としてもデザイナーとしても、私の哲学でして」
シャンパンのグラスを上げ、得意げに笑った。
静かに料理を味わっていた玲子が、ナプキンで口元を押さえ、口を開いた。
「一条社長。5年前、創業初期のシグネチャーロゴと、最初のカタログを覚えていらっしゃいますか」
「もちろんです。私の青春と魂を注いだ、自信作ですから」
その厚かましい返事に、玲子がかすかな笑みを浮かべた。
「おかしいですね。そのコバルトブルーの配色と文字間について説明したポートフォリオを、拝見したことがあります。一条社長のお名前で紹介された仕事ではなかったと記憶していますが」
視線が雅人を通り越し、紗月へ向いた。
「デザイナーの、橘紗月さん。5年前、デザイン協会の若手クリエイターフォーラムでお会いしましたね。あの画期的なアイデンティティをまとめられたのは、紗月さんでしたでしょう?」
氷水を浴びせられたような沈黙が、個室に落ちた。
雅人の顔が青ざめた。
「り、理事長……それは、社内チームの仕事でして……」
言いよどむ夫の横で、紗月は背筋を伸ばし、穏やかに笑った。
「覚えていてくださって、ありがとうございます。はい、私が手がけました。ロゴの比率や配色から、最初のカタログの編集まで。元のファイルも、私が保管しています」
澄んだ声だった。揺れてはいなかった。
夫の薄い嘘を崩し、ブランドの根幹となるデザイン思想や空間造形を、自分の言葉で、よどみなく説明した。
玲子の目が感嘆に輝いた。
「やはり、私の目は間違っていなかったようです。一条社長のきれいな言葉だけではわからなかったものが、ようやく見えてきました」
バッグから名刺を出し、紗月に手渡す。
「紗月さん。うちの財団で、この秋に進めるプレミアム・アートコンプレックスの統括ビジュアルディレクターを探していたんです。橘紗月さんに、ぜひお任せしたいわ」
雅人の握るグラスが、小刻みに震えた。
妻を見下すために連れてきた席で、妻は主役としてよみがえり、自分は中身のない詐欺師になりつつあった。
* * *
会食のあと、ホテルの地下駐車場。
高瀬夫妻を見送って車に乗った途端、雅人がハンドルを殴った。
どん、と鈍い音がした。
「紗月! お前、正気か? 俺の会食で俺を脇役にして、恥をかかせやがって!」
乱暴な言葉が飛んできた。
けれど紗月は、瞬きもせず夫を見返した。
「何か嘘を言った? 自分で作ったデザインを、自分のものだと言うのが、そんなに悪いこと?」
「何……?」
「徹夜したのは私なのに、あなたがやったって言っていたでしょう。いつまで隣で笑っていればいいの?」
そのとき、コンソールに置かれた雅人のスマートフォンに、怒りに満ちたメッセージが立て続けに表示された。
【白石沙耶:社長! 今日ルミナスで、奥様とあのトレーナーに何をされたか知っていますか? 今すぐ電話に出て!】
雅人の顔から、血の気が引いた。
紗月はゆがんだ夫の顔を見て、口元に冷たい笑みを浮かべた。
醜い仮面を剥がされた男の転落は、まだ、始まったばかりだった。
南青山、ルミナス本社の専用アトリエ。やわらかな白い照明の下、紗月が昼夜をかけて完成させた、最初のアクティブウェアの試作品が並んでいた。上質な機能性素材に、人の体に沿う着圧パターンを取り入れたテクニカルウェア。次は、腕を上げ、体を曲げたときに、服がどう動くかを確かめる番だった。紗月は、運動に慣れた怜司へ最初の着用を頼んでいた。ドアが開き、彼が静かに入ってきた。作業台の服を見ながら、袖をまくる。「お呼びですか、奥様」「ありがとうございます。初めての試作品なので、動いたときに引っ張られるところがないか、見ていただきたいんです。小さな違和感も、全部教えてください」濃いコバルトブルーのコンプレッショントップとパンツを渡した。怜司はうなずいて更衣室へ入り、ほどなく着替えて出てきた。くっきりした胸。逆三角形に広がる背中。余分な肉のない、引き締まった腰。計算した立体パターンが、その体と合わさり、見事な造形を見せていた。「着た感じはどうですか?」「胸を支えてくれますが、呼吸は楽です。腕を前へ伸ばしてみましょうか」紗月はすぐ側面を見た。座って描いた線が、実際に動いても残っている。夜通し直した甲斐があった。「背中の起立筋に沿うサポートラインを、2.5cmほど、もう少し詰めてみます」手首にピンクッションをつけ、後ろへ回った。手のひら一枚分ほどの距離になると、森の香りと体温が、急に鮮明になった。紗月の指が、広背筋と背骨沿いの筋肉を慎重にたどった。硬い皮膚の下にある、太い筋肉の流れが指先へ伝わる。触れた途端、彼の背中がわずかに緊張した。「っ……」腰の中心を押さえ、ピンを打った瞬間、低い息が耳をかすめた。「奥様……指が、冷たいですね」紗月はピンを持つ手を一度下ろした。「緊張すると、こうなるんです。少しだけ我慢し
ルミナス1階の大理石のロビーに、怒鳴り声が響いた。「紗月! どこだ! 今すぐ出てこい!」裁判所から送達された離婚の訴状と、仮差押えの通知を握った雅人だった。いつも整っていたオーダースーツはしわだらけで、ネクタイは傾き、酒のにおいと狂気をまとっていた。社長の座を追われ、他人名義の口座も隠し財産も凍結されて、すっかり理性を失っていた。エレベーターから出た紗月を見つけるなり、獣のように飛びかかった。「お前、正気か! 俺に離婚を突きつけて、財産の70%に親権まで要求しやがって! 俺をこの業界から消すつもりか!」胸ぐらへ手を伸ばした、そのとき。怜司が素早く動き、2人の間へ広い肩を入れた。大きな手が雅人の手首を捉え、一気にひねり上げた。「ぐああっ……!」悲鳴を上げ、大理石へ膝をつく。「まず手を下ろしてください。続けるなら、警察へ引き渡します」怜司は声を荒らげなかった。腕を抜こうとするときだけ、手首を確かに押さえた。会員と社員が集まり、ざわめきが広がると、雅人は羞恥で震えながらわめいた。「こいつが愛人なんだろ! 夫の金でジムに通って、若い男と寝て、俺を追い出したんだ。この汚い女が!」身勝手な濡れ衣だった。紗月は怜司の後ろからゆっくり出て、夫を冷たく見下ろした。教わったとおりにお腹を支え、背筋を伸ばす。唇から、冷たい笑いがこぼれた。「ばかなことを言わないで。ホテルで白石沙耶とお金を逃がそうとしていたのは、あなたよ」携帯の写真を開いた。ホテルのテーブルに広げられた現金と、口座の資料だった。「言い訳は、ここじゃなく、取り調べでどうぞ。今日したことも、全部記録しておくから」雅人が青ざめた。唇を震わせるばかりで、反論できない。自分の罪の証拠の前で、虚勢が砂のように崩れていった。警備員が駆けつけ、両腕を押さえて外へ連れ出した。
金曜の午前11時。南青山のルミナス本社、最上階の役員会議室。東京のビル群を見渡せる大きな窓のある部屋へ、紗月は怜司と入った。木のテーブルの上座には、グループを率いる神崎晃(かんざきあきら)が座っていた。元日本代表選手から、世界へ広がるフィットネス企業を築いた経営者だった。神崎は椅子を勧め、ポートフォリオを待った。紗月はバッグから資料を出しながら、テーブルの下で足の裏を均等に床へつけた。「奥様……いえ、デザイナーの橘紗月さんですね。桐生チーフが、ずいぶん熱心に褒めていましたよ」軽く微笑み、手で促した。「この秋に始めるプレミアム・アクティブウェアについて、用意してくださった案を拝見しましょう」紗月は革のファイルを開き、夜を徹して磨いた企画を大型画面へ映した。体の線を見せる正面図と、腕を伸ばし、腰を曲げたときの側面図が並んだ。動きに合わせて生地が引かれる場所、ゆとりの必要な場所が示してある。得意なコバルトブルーとモノトーンは、そのままだった。代わりに背中と脇の切り替えを変え、姿勢を変えたときの負担を減らしていた。「見せるために我慢する服は、作りたくありませんでした。運動中も肩を開き、楽に呼吸できるよう、パターンと素材を一緒に調整しています」生地を引き、戻す手を、神崎が見ていた。「美しくて、着心地もいい服を作るということですね。実際に着ても、この線は保てますか?」「サンプルで確かめます。絵のとおりに押し通さず、着た状態を見て直すつもりです」怜司と確認したメモを出した。わからないところには、印がついたままだった。医療の専門家のように話す必要はない。着る人の動きを聞いて、それを服に落とし込む。その仕事なら、説明できた。神崎が、背中の線を指した。「これをなくせば、生産しやすくなるのでは?」「そうすると、腕を前へ寄せたときに引っ張られます。今は残して、着用結果を見てから決めたいです」
週が明けた月曜の午前10時。東京家庭裁判所の受付。理沙が、紗月の名前の入った厚いファイルを窓口へ提出した。【離婚、慰謝料、財産分与ならびに親権者・監護者の指定を求める訴え】受領書を受け取った紗月は、一番上の自分の名前を確かめた。書類を準備していたときとは違う。もう引き返すつもりはない。その実感が、指先まで伝わってきた。「紗月、受け付けてもらえたわ」理沙が笑顔で書類を渡した。「ホテルの資料と法人カードの伝票、デザインの記録も添えてある。財産分与は70%、花音ちゃんの親権と監護も、あなたが担うよう求めた。相手が何を言っても、資料で答えよう」「ありがとう。1人だったら、ここまで書類を持ってくることさえ難しかったと思う」紗月の目は、今までになく澄んでいた。雅人からは何十件もの着信と、卑屈な懇願、脅すメッセージが入り交じって届いていた。ためらわず、着信を拒否した。連絡は理沙を通して受ける。1人で電話を取り、揺さぶられることを、もう繰り返したくなかった。帰宅して、雅人が残した服と荷物を箱へ詰めた。花音の部屋には、明るいパステルカラーの寝具を置いた。娘が選んだ色だった。カーテンを開けると、その上へ日差しが長く伸びた。* * *午後2時。ルミナスのVVIPルーム。少し軽くなった体と、確かな気持ちで、紗月は怜司の前に立った。彼の鋭い目が、全身を確かめた。「もう、私が言う前にご自分で姿勢を直すんですね。入ってこられたときもそうでした。痛みはどうですか?」その言葉に、紗月は少し誇らしく笑った。「軽くなりました。緊張すると、まだ肩が上がりますけど。どうしたら緩められるのかも、少しわかってきました」「いいですね。今日から第3段階に進みましょう。重さより、まず動きを覚えます。つらいところがあれば、すぐに言ってください」デッドリフトとランジのエリアへ案内された。バーベルを握ると、怜司が背後から、腰
翌日午後3時。港区芝浦の、5つ星ブティックホテル22階。厚いカーペットの敷かれた最上階の廊下に、紗月と理沙、裁判所の執行官、証拠の記録を担当する調査員が並んだ。スイート2205号室の前。心臓がせわしく鳴り、胸の奥がひりついた。それでも紗月は歯を食いしばった。教わった呼吸で下腹を締め、背筋を伸ばす。体の中心が定まると、暴れていた感情が冷たく落ち着いていった。「執行官、開けてください」理沙の声を受け、ホテルの支配人がマスターキーをかざし、ドアを押した。電子音が鳴る。開いた室内から、濃いバニラの香水とシャンパンのにおいが流れ出した。寝室につながる応接スペース。雅人はバスローブ、沙耶は薄いシルクのスリップを着ていた。大きな木のテーブルに100ドル札の束と貴金属、他人名義の口座資料を広げ、海外へ逃げる段取りを相談していた。「……誰だ!」雅人が跳ねるように顔を上げ、ドアの前の紗月を見つけて凍りついた。「さ、紗月……?」沙耶は悲鳴を上げ、シーツで体を隠そうともがいた。「きゃあっ! 何なの! 誰よ、今すぐ出ていって!」調査員のカメラが、四方から光を放った。現金の束、偽造された書類、そして2人の密会。高解像度のレンズに、次々と記録されていく。理沙が証拠保全に関する決定書を、雅人の前へ示した。「一条雅人さん、白石沙耶さん。東京地方裁判所の決定に基づく証拠保全です。会社資金の隠匿と、不貞行為に関する現場の記録を行いました」雅人は紙のように白くなり、震えながら、這うように紗月へ近づいた。「紗月、これは誤解なんだ! 仕事で急に金が必要になって、沙耶に少し頼んで……!」どこまでも、見苦しい言い訳。自分の罪を隠すため、妻も娘も捨てて逃げようとしていた男の底が、見えていた。紗月は冷えた目で、夫の顔を見た。涙も同情も、湧かなかった。「黙って。また誤解なの?」低い声が、部屋を切った。「どこへお金を逃がしていたのか、これで記録に残ったわ。私の取り分も、花音の養育費も、最後まで請求する」「頼む、紗月……!」スカートをつかもうと手が伸びた。紗月はきっぱり一歩下がった。「この詐欺師! 全部責任を取るって言ったじゃない!」沙耶がアイスペールを雅人へ投げつけた。部屋は、互いに罵り合う修羅場へ変わった。床に散ったドル紙幣を拾おうとした沙耶は
翌朝、高瀬文化財団の執務室。紗月は玲子と向かい合い、プレミアム・アートコンプレックスの統括ビジュアルディレクター就任契約に署名した。「橘ディレクター。戻ってきてくださって、うれしいわ」玲子が温かく手を差し出した。「信じてくださって、ありがとうございます。ご期待に応えられるデザインを、お見せします」プロとしての誇りと決意が、声に宿っていた。割り当てられた専用アトリエと新しいスケッチブックを前にすると、6年間抑えていた創作への熱が、胸の中で動き出した。指先から、新しいロゴの線とコバルトブルーのパレットが、迷わず生まれていく。生きている。1人の作り手として呼吸している。それを、体中で感じていた。* * *午後2時。南青山の自宅。昨日、雅人が荷物をまとめて出ていった家には、澄んだ静けさがあった。チャイムが鳴り、黒いノースリーブのトレーニングウェア姿の怜司が入ってきた。大きな体と森の香りが、リビングの空気まで入れ替えるようだった。「いらっしゃいませ、先生」「おめでとうございます。財団のディレクターに就任されたと、記事で拝見しました」静かな祝福に、紗月は少しはにかんだ。「先生のおかげです。体がまっすぐになったら、自分の居場所まで取り戻せました」「ご自身でなさったことです。ただ、本格的な制作が始まれば、長時間描いて、胸椎や肩甲骨がまた硬くなりやすくなります。今日は背骨を分節ごとに動かすことと、深い体幹の働きを、もう一段階進めましょう」リビングの中央に、マットとフォームローラーが置かれた。紗月はスポーツトップとレギンスで、ローラーに背骨を沿わせて横たわった。怜司が頭のそばへ来て、片膝をつく。その熱が、頭や首筋にまで降りてきた。「深く息を吸って、肋骨を立体的に広げてください」大きな手が、肋骨の両側と鎖骨の下を、細かく捉えた。息も脈も肌に触れそうなほど、距離が近い。温かい手が動くたび、背骨の節が心地よくほどけ、鋭い震えが全身へ広がった。「今度は吐きながら、お腹を締めて。胸骨を床へ、そっと沈めます」指が腹直筋と腹横筋を押さえた。「っ……」短い息が漏れた。深く静かな呼吸と体温に、隙間なく包まれる。夫の気配がなくなった家で、2人の間の緊張は、これまでよりひそやかで、強かった。怜司はトレーナーの線をきちんと守りながら、紗月







